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第六章 安土桃山時代の文化
学習ポイント
- 城郭の建築文化
- 障壁画と屏風
- 歌舞伎踊りと人形浄瑠璃
- 南蛮文化の伝来
第一節 城郭の建築文化
古代から中世にかけて、日本の城は山城が基本だった。山城とは、「平地から80〜100m以上の山上にある城」のことである。古代には九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて、唐・新羅の侵攻に備えて多くの山城が築かれ、中世になると各地の豪族が山城を拠点とするようになった。そして、戦国大名は、自分の屋敷や家来の住まいを平地に作り、その後ろに戦闘用の建築物である山城を建設した。
しかし、戦国時代も後期になると、城下町を伴う平山城、平城が主流となった。城は単なる軍事施設から、次第に武将の権力を示す象徴と変化したのである。特に関西は近世城郭建築が発生・発展した地域であり、豊臣秀吉が開いた大坂城(現在の大阪城)、徳川将軍上洛時の居城二条城、白鷺城とも呼ばれる姫路城などがある。その後、徳川幕府の確立によって発せられた一国一城令などで城作りは次第に活気を失うが、その建築物は近世都市の姿を今の日本に伝えている。
(一)安土城
古代・中世の時代、山城を基本とした城郭建築を大きく変化させたのが、安土城を築いた織田信長である。高い所に作られる山城に代わり、平野に囲まれた丘の上に建てられる平山城、水利のいい平地に作られる平城が増えていったのである。そして、城の周りには商工業者が集まって城下町が形成された。特に安土城の城下では、規制が緩和されて、活発に経済活動が行われた。この経済活動への措置を「楽市楽座」と呼ぶ。
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信長の天下統一事業を象徴する城郭、安土城は、1582(天正10)年の「本能寺の変」(織田信長の家臣明智光秀(1528-82)の謀反)の後、間も無く焼失し、廃城となってしまう。現在残っているのは石垣などだけだが、当時の様子はイエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録などから知ることができる。それらの資料によると、信長は天守に、家来たちはその下や城下の屋敷に居住していたという。また、当時の姿を知るための資料としては、信長が画家の狩野永徳に描かせた屏風がある。これは当時カトリック教会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した人物)に贈られ、その後ヨーロッパに輸送されて、教皇庁に保管されているという。
(二)大坂城
大坂城は、姫路城、熊本城とともに日本三名城の一つに挙げられる城である。現在、地元では「太閤さんのお城」などとも呼ばれているが、戦後の調査によって、城跡の櫓や石垣は江戸時代に再建されたものであることが分かっている。
大坂城の前身は、石山本願寺という寺だった。1580(天正8)年に焼失すると、1583(天正11)年に豊臣秀吉がここに城を築いた。これが大坂城である。豊臣秀吉は、ここで生活し、また政治も行ったが、1615(慶長20)年の大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失してしまう。現在見られる大坂城の天守は、昭和初期に再建されたものである。
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(三)伏見城
伏見城は、豊臣秀吉が自分の隠居後、生活する場所として造ったものが最初であるが、三回にわたって築城されている。最初に指月山に築かれたものが指月山伏見城、1596年の震災の後に木幡山に移されたものが木幡山伏見城と呼ばれる。豊臣秀吉の死後は、豊臣秀頼(1592-1615)が遺言に従って大坂城に入り、当時五大老筆頭だった徳川家康が伏見城に移った。だが、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦い(1600)で大半が焼失してしまう。そのため、家康は大坂城攻撃(大坂の陣)の拠点として城を復旧した。これが三回目の築城である。
伏見城の本丸跡などは後に明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)となったので、現在は許可がないと入ることができない。また、伏見城花畑跡には1964(昭和39)年、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設された。この園内には模擬天守が鉄筋コンクリートで建設され、当時の姿を偲ばせている。
第二節 障壁画と屏風
障壁画は、襖や衝立に描かれた絵のことで、その中心的なものは襖絵である。生活空間である家を彩る大きな絵画であり、平安の貴族の住宅や山荘、寺院に急速に普及した。発生したのは9世紀初期で、唐絵、大和絵、漢画といった障壁画があった。だが、障壁画として代表的なのは、さらにこれらの絵から発展した桃山時代の豪華な金碧障壁画である。そして、安土城という壮大な建物が現れて、障壁画は黄金時代を迎えることになる。
障壁画の制作について、江戸時代の画家狩野永納(1631-97)はその著書『本朝画史』でこう述べている。(1)城郭御殿で多様化した生活空間に画題や技法を合わせて整合的にする。(2)私的な場所では山水を水墨で描き、公式の場所では人物を彩色で描く。(3)人が多く集まる大広間には花鳥を、廊下など庇の間には走獣などを、濃彩で
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華やかに描く。(4)その他の屏風や衝立では、山水、人物、花鳥などを、四季を意識して構成すべきである。
障壁画は住宅の空間を広く見せる役割と、空間にまとまりを与える役割を持っている。特に襖絵は、空間を分割する効果も担っていた。
(一)狩野永徳
狩野永徳は安土桃山時代の絵師である。室町時代から江戸時代まで、日本の画壇の中心は狩野画派だったが、狩野永徳はその狩野派の代表的な画人であり、日本美術史上でも最も重要な画人の一人である。代表作は『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などで、雄大な画風で知られるが、細部を緻密に描く「細画」も得意だったという(『本朝画史』)。また、安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画も制作した。しかし、永徳が実際に描いた作品は、今はあまり残っていない。建築物が滅びると同時に、その絵も失われるケースが多かったのである。
(二)長谷川等伯と「松林図屏風」
長谷川等伯(1539-1610)は安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した画人で、狩野永徳と並んで桃山時代を代表する絵師である。等伯ははじめ、長谷川信春の名で自分が信仰していた日蓮宗関係の仏画や肖像画などを描いた。その作品は現在でも、能登地方一帯にかなり残っている。等伯が自分の画風を確立したのは、千利休などの茶人から得た中国絵画の知識によるところが大きい。障壁画はもちろん、その他に中国の宋や元の影響を受けた水墨画も得意だった。特に中国の水墨画家牧谿(生没年不詳)の影響が強いという。
代表作は「松林図屏風」で、これは現在京都の智積院にある。「松林図屏風」はその伝来、製作の事情など不明な点が多いが、その筆致は見事である。等伯の作品の多くは、重要文化財に指定されている。
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第三節 歌舞伎踊り・人形浄瑠璃・茶道
(一)歌舞伎踊り
「歌舞伎」は、出雲阿国という女性芸能者に始まるとされている。この女性は1598(慶長3)年、「ややこ踊り」という子供の踊りを踊って人気を得た。しかし、成長した阿国は、子供の踊りは踊れないため、1603年に「歌舞伎踊り」と名称を変えた。これが「歌舞伎」の始まりである。
「歌舞伎」という言葉は「傾く」という言葉から来ている。この言葉は「非常識なことをする」を意味している。当時、「傾き者」と呼ばれた若者たちがいた。彼らは、派手な着物や奇抜な髪型、持ち物を特徴とした。歌舞伎とは奇抜で派手な舞踊だったのである。
しかし、阿国をまねて盛んになった「遊女歌舞伎」が、その名のとおり、遊女(売春婦)のような事もしたため、政府に取り締まられ、禁止されてしまう。次に女装した少年が演じる「若衆歌舞伎」が流行するが、この時代は衆道(男同士の恋愛)が盛んで、役者をめぐる事件が跡を絶たず、これもまた幕府から禁止されてしまう。そこで登場したのが、若衆の髪型ではなく、成人の髪型(野郎頭)の役者が演じる「野郎歌舞伎」である。庶民に楽しみを与える歌舞伎は、元禄時代に入って、江戸や関西の十一座が幕府から公認され、文化として成熟していくことになる。
(二)人形浄瑠璃
人形浄瑠璃とは人形を使って行う日本伝統の演劇である。「文楽」とも呼ばれる。大正時代に人形浄瑠璃の専門劇場が「文楽座」だけになり、人形浄瑠璃の通称として用いられるようになった。
語り物としての「浄瑠璃」は室町時代に琵琶法師によって始まったとされるが、これに人形が結びついたのは安土桃山時代から江戸時代の初期である。その後、竹本義太夫(1651-1714)が、義太夫浄瑠璃を
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大坂で行って大流行させ、庶民の娯楽として定着した。
(三)茶道(千利休、茶の湯)
茶道は本来、唐(618-907)から日本へ伝えられたものであったという。茶道は禅宗の考え方に基づいており、鎌倉時代、禅宗とともに日本全国に広まった。そして、室町時代に花開いた東山文化の一つとして茶を楽しむ気風が生まれた。安土桃山時代に入ると、千利休が、現在の茶道の原型である「わび茶」を完成させ、「茶道」が確立する。その後、茶道は表千家、裏千家、武者小路千家のいわゆる三千家に分かれる。
茶道では「わび・さび」の精神を大切にし、茶室という静かな空間で茶を点てて心を落ち着かせる。茶を点てることで、自分自身を見直し、精神を高める一種の精神修行でもある。茶道の心を示す言葉に「一期一会」という言葉がある。これは「今、一緒にいる人とその時間を大切にし、相手に最善のもて成しをしよう」という心のありようで、人生への態度を教えるものでもある。
茶道とは、茶室や庭などの空間や茶道具、茶席で供される懐石料理や和菓子などの食、客人をもて成す作法と心持などが融合した総合芸術というべきものなのである。
第四節 文化交流(南蛮文化と有田焼)
ヨーロッパの大航海時代は、日本にもその影響を与えることになった。それによって日本にもたらされた西洋の文化、それが南蛮文化である。南蛮文化は室町末期から江戸初期にかけて、ポルトガルやスペインの宣教師、貿易商によって伝えられた。医学、天文学や芸術のほか、鉄砲製造、航海術などの技術や知識がもたらされた。また、カトリックのイエズス会によるキリスト教宣教師がもたらした文化でもあるので、キリシタン文化とも呼ばれる。南蛮文化は、それまでの日本の文化とは全く異質で、あらゆるものが関心の対象となった。
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(一)活字印刷術
宣教師は、キリスト教を広めるために日本にやってきた。そのため、各地に教会や宣教師養成の学校、老人施設、病院などを建てて神の教えを広めた。しかし、それ以外にも天文学、医学、地理学などを伝え、地球儀、世界地図、太陽暦、望遠鏡、時計、さらには航海術や造船技術も日本人に教えた。その中でも注目すべきは、活字印刷である。活字印刷で、宣教師たちはローマ字の『伊曽保(イソップ)物語』や『平家物語』を印刷した。これはキリシタン版(天草版)と呼ばれる。この当時伝えられた外来語も多く、ポルトガル語(カステラ・パン・タバコなど)やスペイン語(メリヤス・ズックなど)には日本語化したものも少なくない。
(二)陶磁器の発展と「有田焼」
豊臣秀吉は「文禄の役」(1592-93)と「慶長の役」(1597-98)の二度にわたって、朝鮮に出兵した。これは日本では「朝鮮征伐」と呼ばれ、韓国では「壬申・丁酉の倭乱」と呼ばれているが、さらに「焼き物戦争」という別名もある。なぜこれが「焼き物戦争」と呼ばれるかというと、この戦争で佐賀藩主の鍋島直茂(1538-1618)など九州の諸将が朝鮮撤退時に何千という腕のいい朝鮮陶工たちを日本に連れて帰ったからである。これによって九州の焼き物のレベルは急速に向上する。特に有田焼が有名である。
連れ帰られた朝鮮陶工の中に李参平という人物がいた。日本名を金ヶ江三兵衛という。李参平は1616年に佐賀の多久から伊万里、さらに有田の泉山で、良質の磁石を発見し、ここから有田の窯業は急速に発展した。そのため、李は有田焼の祖と呼ばれる。
「有田焼」の特徴は、硬く丈夫で透明感のある白磁に、藍色や赤、黄、金など鮮やかな色で繊細な模様が描かれている点である。有田焼は17世紀後半から18世紀後半にかけて、ヨーロッパなど海外へも輸出された。この時、有田は海がなく、伊万里港から輸出されたので、有田焼はまた「伊万里焼」とも呼ばれる。そのため、ヨーロッパでは、有田焼は「IMARI」と呼ばれ、高値で取引されていた。ヨーロッパの貴族には熱心なコレクターもいたという。
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(文責:徐興慶)
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
- 織田信長と豊臣秀吉の時代の文化は安土桃山文化と呼ばれている。その特色は、武将と(a. 文化人 b. 豪商 c. 農民)を担い手とする豪壮華麗で自由闊達な文化である。
- (a. 狩野探幽 b. 狩野英孝 c. 狩野永徳)を代表とする狩野派が、金地に派手な色を使った豪華な障壁画を残している。
- (a. 大坂城 b. 安土城 c. 姫路城)は信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、天守に信長が起居、その家族も本丸付近で生活していた。
- 狩野派は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、安土城、聚楽第、大坂城などの(a. 障壁画 b. 山水画 c. 水墨画)を制作した。
- (a. 千利休 b. 李参平 c. 豊臣秀吉)は日本で初めて白磁を焼いた有田焼の祖である。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
- 長谷川等伯は、中国の水墨画家( )の影響を強く受け、その筆法を完全に会得するまで何度も繰り返し描いたという。
- 語り物としての浄瑠璃は室町時代・享禄年間(1528-32)に( )によって始まったとされている。
- 千利休の後、茶道は子孫に受け継がれ、表千家、裏千家、武者小路千家の、いわゆる( )が生まれた。
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- 李参平が有田の( )で良質の磁石を発見し、そこから有田の窯業は急速に発展した。
- 室町時代の末から江戸時代の初めにかけて流入した南蛮文化は、布教活動と密接に関係していたため、( )とも呼ばれる。
三、次の文章を読み、説明に答えなさい。
- 「狩野派」について述べなさい。
- 歌舞伎踊りとは何か、説明しなさい。
- 千利休が発展させた「茶の湯」の精神について述べなさい。
- 南蛮文化とはどのようなものか説明しなさい。
- 「有田焼」の歴史について述べなさい。
参考文献
- 小澤弘、川嶋将生 『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』、河出書房新社、1994年
- 黒田日出男 『謎解き洛中洛外図』、岩波書店、1996年
- 特別展図録 『狩野永徳』、京都国立博物館、2007年
- 熊倉功夫 『茶の湯の歴史:千利休まで』、朝日新聞社、1990年
- 谷晃 『茶人たちの日本文化史』、講談社、2007年
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